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粕本集呆の馬事放言

「粕本集呆の辛口一献」に替わるカスPこと粕本集呆の新ブログ。主に競馬関連中心ですが、ニコマス活動再開も企図しております。

悲劇の関白・豊臣秀次について語る

 最近「〇〇ロス」という言葉が流行っているようで、「あまロス」から、「五代ロス」、そしてついには「秀次ロス」まで出てきた。「真田丸」では比較的長い期間登場していた秀次(新納慎也)が非業の死を遂げたことで、彼を憐れむ視聴者たちの声がネット上で溢れかえったそうです。

 

豊臣秀次はかつて、晩年の乱行も手伝い、暗愚な権力者の典型のように捉えられていました。「絵本太閤記」等にはその乱行ぶりが記されているのですが、一般的なイメージになったのは、司馬遼太郎の「豊臣家の人々」の第一話「殺生関白」でしょう。この作品、主に豊臣家に関わる人々が、突然権勢が自らの許に転がり込んできたことにより、それに翻弄されていく有様が描かれている。従って「殺生関白」の冒頭は秀次自身ではなく、その父で、平凡な農民に過ぎなかった長助(秀吉の姉の夫)の件ではじまります。

この中で司馬は、秀次を最初の小牧・長久手の戦いの失態から最後の高野山での切腹に至るまで、これでもかというほど悪し様に描く。エンターテインメントにしても、秀次の業績ですら尽く難癖をつけて否定する有様で、400年前の人物に何か恨みでもあるのか?と訝ってしまうほど。作中、秀次の文化的功績を、藤原惺窩の言葉を借りて否定していますが、この藤原惺窩という儒学者、親交のあった朝鮮の儒学者・姜沆に対して、「日本が明や朝鮮に征服されればいい」と漏らしている。つまり秀次に限らず、当時の日本社会そのものに対して批判的だったのですが、当然司馬はそれには触れていない。

私は司馬遼太郎の作品はロクに読んでいません。というのも、最初に読んだのが、前半は実に面白かったけれど、後半は尻すぼみな感が拭えなかった「国盗り物語」。そして次に読んだのが「豊臣家の人々」の第一話「殺生関白」だったのです。そこでもう以降、司馬遼太郎を読むのはやめた。最初が「竜馬がゆく」や「坂の上の雲」だったらまた違ったのでしょうが、最初の巡り合わせが悪かった。

司馬史観」という言葉があり、今の坂本龍馬像が「竜馬がゆく」で形作られたように、エンターテインメントがそのまま史実化してしまう。佐藤賢一は、書き手はその呪縛から脱却しないといけないと主張していますが、それは司馬を批判しているのではなく、死後四半世紀経っても作家たちを縛り続けるほど影響力が強いのだと言っているのです。書き手ですら縛られるのだから読み手は猶更で、豊臣秀次の暗君像こそ「司馬史観」の弊害の代表でしょう。「殺生関白」で秀吉が秀次切腹の決め手としたのが、秀次の妻・一の台(菊亭晴季の娘で、二度目の結婚にあたる)の連れ子に手を出す所謂「親子丼」で、晴季の訴えで秀吉は犬畜生にも劣ると激怒したのですが、これは「絵本太閤記」に描かれた、根拠のない作り話です。「絵本太閤記」は江戸中期に書かれた読本―今でいう小説で「三国志演義」と同じに考えてくれればいい。

印象的なのが、大河ドラマ「秀吉」が放映された96年、秀次(三国一夫)を悪く描かないよう、秀次が治めた近江八幡の人々がNHKに嘆願書を出した一件。近江八幡は今でも「近江商人」と謳われる滋賀県の商業的伝統を象徴する街で、その礎を築いたのが秀次。近江八幡の人々にとっては決して暗君ではない。「秀吉」では、晩年暗黒面に墜ちた秀吉は描かれないまま終わり、従って秀次自身の出番も少なかったのですが、以降大河ドラマでは秀次は暗君というよりも、悲劇の人として描かれることの方が多くなった。

それでも決して傑物とはいえず、秀頼の出生により、自らの立場が失われることに不安を隠せないキャラクターとして描かれることが多く、「真田丸」でいきなり職務放棄して、大坂城のきり(長澤まさみ)に会いに行ったり高野山に逃げたりする有様は、プレッシャーに押し潰されてプッツン切れた現代人のようで、三谷幸喜らしい演出。「真田丸」の秀吉(小日向文世)はそれでも秀次を許そうとするのですが、精神的に追い詰められ、悪い方へ悪い方へ思考が流れていく秀次は、最後疲れ果て、自ら命を絶ってしまった。意図せずとはいえ秀次を精神的に追い詰めていきながら、一方で自身も秀次に振り回された秀吉も、勝手に死なれプッツン、残された秀次の妻女を皆殺しにしてしまう。突然権勢が転がり込んできた人間がそれに翻弄されていく有様が描かれているのは「豊臣家の人々」と同じですが、三谷幸喜の場合は弱い秀次への同情だけでなく、強くなりすぎた秀吉の哀しさもそこに織り込んでいます。

 

真田丸」では心優しい人物で、それ故偉大な叔父に押し潰されたのですが、「豊臣家の人々」で描かれた秀吉の乱行については当然触れられていない―つまり否定されている。高所から下を歩く通行人を鉄砲で撃ち殺して楽しむとか、罪人を刀をもって自らなぶり殺しにするとか、妊婦の腹を裂くとか云々。

ただ、これらの多くが先述の「絵本太閤記」、江戸初期に小瀬甫庵が書いた「甫庵太閤記」によるものなのですが、「絵本太閤記」は言うに及ばず、「甫庵太閤記」も現在では歴史的資料としての信憑性はかなり低いとされています―ただ、甫庵は一時期秀次に仕えたこともあり、その点は気になります。従って秀次に関しては後述の宣教師ルイス・フロイスのような伝聞とは限らない一方、主従の折り合いが悪く、悪し様に書いた可能性もあります。

フロイスは秀次をかなり肯定的、好意的に記している(「真田丸」にもあったが、秀吉と違ってキリスト教への理解があった)一方、それすら帳消しにしてしまうほどに残虐な行為を好んだとイエズス会への報告書に記しています。罪人を台に縛り付け、手足を切断してなぶり殺しにしたり妊婦の腹を裂いたり等。「甫庵太閤記」よりも時期的にはリアルタイムに近く、好意的に記しながらも欠点として残虐性を挙げているところは信憑性ありそうですが、フロイス自身は当時既に日本を離れていて、それを目撃したわけではなく、他の宣教師か商人かはわかりませんが伝聞のようです。それに、罪人を台の上に乗せて云々…は、死罪に処された罪人の死骸を使って秀次が刀の試し切りをしているのを宣教師が偶然目撃し、それが生きた罪人をなぶり殺し…と曲解された可能性がある。罪人の死体を使った刀の試し斬りは江戸時代にも、役所への届け出、許可を経て大名家が度々行っており、小塚原刑場の資料にもその旨記されている。フロイスの報告書にもある、妊婦の腹を裂き…はこれはもう暴君伝説の定番。武田信玄の父・信虎ですらそういった話があるのですが、「真田丸」で家康演じる内野聖陽山本勘助を演じた「風林火山」で、勘助の子を身籠った恋人(貫地谷しほり)が信虎(仲代達矢)に、狩猟の獲物代わりに戯れに射殺され、それで勘助が信虎への復讐を誓ったくだりがありましたが、その話をベースにしているのかもしれません。

 

秀次乱行説は信憑性が議論されていて、現在では虚構説が優勢なのですが、私も虚構説を支持している。その理由はふたつ。ひとつは乱行の話がすべて秀次の死後に出てきており、彼の生前リアルタイムで記されたものが存在しない(フロイスの報告書も、秀次の死を知り、それに伴って書かれたもの)。もうひとつは秀次が関白の座を追われた理由が、実に曖昧模糊な謀叛の嫌疑であること。「真田丸」で、秀吉が高野山に出奔した秀次を「謀叛の疑いありということで蟄居を命じられた形にしておけ」と三成に命じた場面がありますが、秀次謀叛説の曖昧さを、三谷幸喜がそういった形で脚本に利用したのでしょう。もし、後世に記された残虐な行いが事実なら、それこそ関白位剥奪の理由として真っ先に取り上げられるはず。関白にあるまじき行為として、誰もが納得できる正当な理由になるのです。事実、山科で辻斬りを繰り返した3万5000石の大名・津田信任は、父津田信勝の功績で死こそ免れたものの、その罪で所領をすべて没収されています。一説では、秀次の辻斬りは、津田信任と混同されてしまったのではとも言われている。

 

どうして秀次が「殺生関白」に仕立て上げられたかといえば、その後の秀次の妻子、更には次女に至るまでの大量処刑でしょう。秀次は派手好みなところは秀吉に似たのか倣ったのか、側室、子供が多かった。しかも処刑した秀次の妻子の遺体を、親族が引き取りたいと願ってもそれを許さず、皆穴に放り込み、「畜生塚」とまで名付けた。さすがに若い女性や年端もいかぬ子供たちを大量処刑し、更に死者に鞭打つ様な真似さえしたことは、世間の秀吉に対するイメージを悪くする。そこで、政権はそれを正当化させるため、秀次を暴君に仕立て上げたのでしょう。フロイスはその捏造された悪評を遠いインドの地で耳にしたのかもしれません。

ただし留意しなければならないのは、三谷幸喜も私も、秀次の乱行説否定の代表である小和田哲男先生も、現代人の思考で資料の真贋性を見ていることです。戦国武将の倫理観が、現代人のそれとは大きくかけ離れているということは、このカピバラshugoro氏の本からも明らか。伝えられている乱行が針小棒大ということは充分あるとしても、秀次が新納慎也が演じていた心優しい人物であったとまでは言えないのです。 

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しかしこの秀次の家族を皆殺しにしたことは、秀吉のイメージを悪くしただけでなく、政治的にも豊臣家の崩壊を早めた。東北の大大名・最上義光には駒姫という美しい娘がいて、秀次から側室にと誘われていた。義光も娘が関白の側室なら悪くないと送り出したところ、京都に着いたときには秀次は既に高野山に蟄居させられ、その後切腹。駒姫は秀次と会ったことさえないのに、側室のひとりとして処刑されることになったのです。驚いた義光は秀吉に必死に助命を嘆願、さすがにこれは可哀想だと秀吉の周囲も義光に与し、秀吉も駒姫は赦してやろうと決めたときにはもう時既に遅く、駒姫は刑場の露と消え、他の秀次の妻子同様「畜生塚」に放り込まていた。義光はそれを境に、家康に急接近する。最上と違って親族に被害者はいなかったにせよ、秀次と親交厚かった伊達政宗も、以降家康との関係を強めていきました。

ちなみに石田三成陰謀説もありますが、これは今では完全否定に近い。第一、三成の軍師だった舞野兵庫は、秀次の家老で、責を負って自害した前野将右衛門の一族です。

 

私個人は秀次を、江戸時代の一藩主としてなら、名君として歴史に名を残したかもしれないと思います。上杉鷹山のような危機的状況を打開する強いリーダーシップと行動力はないが、藩政を安定させ、文化を振興させるだけの力量はあった。生まれた時が悪かった。同じような人間に毛利輝元がいますが、彼は五大老とはいえ一大名に過ぎなかったので、悲劇的最期にまでは至らず、むしろ皮肉にも、関ケ原の戦いで大幅減封された後の方が、一藩主として真価を発揮している。

ただ、秀頼が生まれた際、関白の地位に固執して、うまく立ち回ることができなかった点は、凡庸と評価を落とされても仕方ない。秀吉は先が長くなく、秀頼も幼い。たとえ野心があってもそれを隠して、あくまで自分は秀頼への繋ぎだと強調しておけば、秀吉に警戒されず、自身を追い詰めることにもならなかった。

 

真田丸」では隠れて生き延びた秀次の娘のひとり・たか(岸井ゆきの)は信繁の説得もあって秀吉に許され、表面上信繁の側室となりましたが、万が一秀吉が心変わりしたときのため、商人・呂宋助左衛門(松本幸四郎)の手で海外に逃がされる。呂宋というのはフィリピンのことで、スペインの植民地だったこともあり、キリスト教(カトリック)が支配的だった。キリシタンだったたかが後に高山右近も亡命した呂宋へ逃れるというのは理に適っていて、かつて大河ドラマ「黄金の日々」(城山三郎原作)で主人公・呂宋助左衛門演じた松本幸四郎をまったく同じ人物役で起用したのは、往年の大河ファンへの三谷の大サービス。

たかがその後ドラマにまた登場するのかはわかりませんが、史実ではたかと信繁の間になほという娘が生まれ、彼女は成人して江戸時代、2万石の亀田藩主・岩城宣隆の側室(「真田丸紀行」では正室と言っていたが)・お田の方となり、男子を産んだ。岩城宣隆は、「鬼義重」と呼ばれ伊達政宗とも争った佐竹義重の四男(秋田藩初代藩主で義重の長男・義宣の息子とも)。

男子は無事成人し、岩城重隆と名乗り、宣隆の跡を継いで亀田藩藩主となりました(戦国時代中期に同一名の武将がいる)。重隆は新田開発や城下町の整備に尽力し、名君と讃えられました。亀田藩は天災に翻弄されやすい東北諸藩の中でも、小藩ながら比較的安定した藩で、その礎を重隆が作った。それだけでなく「島原の乱」の折、最初の総大将板倉重昌が戦死、ふたり目の総大将・松平信綱も失敗したときは、三人目の総大将として島原に派遣される予定でした。武将としても優秀だと幕府からは目されていたようで、競走馬風にいえば、佐竹義重真田信繁の強力なクロスがあったのかもしれません。一方で行政に優れた点は母系の豊臣秀次の血が発揮されたのかもしれない。ただ、真田父子のような堅い絆には恵まれず、息子景隆と対立、廃嫡して幽閉。家臣たちの懇願もあり許そうとした矢先に景隆は病死し、重隆は悔やんで、景隆の忘れ形見・秀隆を後継者に指名しました。しかし晩年は、その秀隆とも対立、一時は秀隆をも廃嫡し、養子を迎えようとも考えたそうです。

ちなみに信繁の三男・幸信はたかの息子で(長男・大助幸昌と次男守信は正室・竹林院の子)、姉のお田の方を頼って亀田藩に仕えたそうですが、そのとき、秀次が豊臣姓を名乗る前の姓である三好(秀次は最初、畿内の大名・三好家の養子となっていた)を名乗りました。