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粕本集呆の馬事放言

「粕本集呆の辛口一献」に替わるカスPこと粕本集呆の新ブログ。主に競馬関連中心ですが、ニコマス活動再開も企図しております。

名馬ミホノブルボン死す。


2011年JRA CM 皐月賞 ミホノブルボン

ミホノブルボン日高町のスマイルファームで死去。享年28歳。死因は老衰だそうです。

1991年デビュー、デビューから無敗の7連勝で朝日杯3歳S(現朝日杯FS)、皐月賞、ダービーを制覇。菊花賞ライスシャワーの2着に敗れた後、故障に見舞われて戦線離脱。療養中に管理していた戸山為夫師が逝去し、松元茂樹厩舎に籍を移しましたが、一戦もしないまま引退。

最強といっていい馬に育て上げた戸山師は現役のまま病死、デビューから一貫して手綱を握り続けてきた小島貞博騎手(後に調教師)は自殺。ともにホースマン人生を全うすることできず、志半ばにしてこの世を去った。そのふたりの手によって、当時のみならず後の競馬ファンの心にまで勇姿を焼きつけた名馬が、老衰で馬生を全うするというのも印象深い。

「坂路の申し子」、「坂路調教の結晶」と呼ばれたのですが、何故そう呼ばれたのかといえば、当時坂路調教は一般的ではなく、むしろ「何ワケわからないコトやってんだ?」と異端視されていたからでもあります。戸山師と一緒に坂路調教を実践していたのは、同師の著書では、これも名伯楽で知られる渡辺栄師くらいだったらしいのですが、渡辺師が人当たり柔らかく温厚な人柄だったのに対し、戸山師は直言居士のようなところがあり、敵も多かった。確かに戸山師の遺した著書を読むと、だいぶ個性の強い人だったようで、弟子だった森秀行師は、そんな戸山師の一面を反面教師として捉えていたそうですが、戸山師も、自身の師匠だった坂口正二師を反面教師として見ていたところがあり、そういった面が代々継承されるのはある意味面白い。

そしてまだ確立されていなかった坂路調教は試行錯誤の面もあって、多くの馬を壊してしまった。先述した人柄と相俟って、戸山師の調教手法が「スパルタ」と、どこか批判的な響きをもって呼ばれる所以。無論、戸山師の手法は、昔の体育会系のような科学的根拠のない、浅薄な根性論に基づいていたわけではなく、これも面白いことに、「ハッピーピープル・メイク・ハッピーホース」をモットーに、スパルタとは対極にある藤澤和雄師の著書と比較すると、馬に対する見方、考え方が多くの面で重なっている。しかし一方で自身ミホノブルボンの成功を「一将功成りて万骨枯る」と認めていた。「坂路の申し子」、「坂路調教の結晶」とミホノブルボンが讃えられた陰に、多くの消えていった競走馬たちの存在があったのです。志半ばで世を去った関係者たち、大成できず消えていった馬たちの分も生きたかのように、命の灯が尽きるまでミホノブルボンは生き、静かにこの世を去りました。

最後に、戸山師死後、その管理馬の多くを、かつて戸山厩舎の番頭格だった森秀行師が継承したが、ミホノブルボンは引き受けなかった。ミホノブルボンは「戸山イズム」の結晶であり、「戸山イズム」との決別を意味していたとも言われますが、この馬の存在があまりに重すぎたというのも理由でしょう。仮にミホノブルボンがターフに戻ってきたとき、それまでのような結果が出せなければ、たとえ調教師の責任ではないにしても、キャリアに大きな汚点を残すことになる。森師は小島貞博騎手を頑として起用しませんでしたが、ミホノブルボンは小島騎手と二人三脚で栄光を築き上げてきた。ここで武豊を起用して負ければ、「コイツは馬のことを何も分かっていない」とやはり評価を落とす。ミホノブルボンはある意味鞍上込みで完璧な芸術品であり、下手に触って傷をつけるのが怖かったのかもしれない…と私は推測します。その意味で、菊花賞を最後にターフに戻って来なかったのは、競走馬として最後まで完璧な芸術品のままでいられたということで、もしかしたら結果的に復帰できなかったことは良かったのかもしれません…といえるのは、この馬が活躍したのは私が競馬を始める10年以上前で、最初から私にとっては過去—レジェンドだったからでしょう。

たとえば自らの会社名にこの馬の名前を借りたshugoro(小出文彦・元競馬ライター)氏のように、リアルタイムでこの馬に心震えた人は数多おられるはずで、「門前の小僧習わぬ経を読む」とはいえ所詮、私の駄文はそういった方々の熱い想いには到底及ばない。彼らの追悼文を読むことで、偉大な競走馬を偲びたいと思います。