粕本集呆の馬事放言

「粕本集呆の辛口一献」に替わるカスPこと粕本集呆の新ブログ。主に競馬関連中心ですが、ニコマス活動再開も企図しております。

大河ドラマ終了後、半年経って井伊直政の話

—実は以下の文章、3月くらいにほぼ記し終えていたのですが、忙しさにかまけて仕上げずに放置したまま、もう6月も終わりになってしまった。今更「おんな城主・直虎」の後日談かよ?という、賞味期限が切れて半年近く経ったお菓子が棚の奥から出てきたようなもので、UPするのもどうかという感じですが、折角記したんだし、食べ物と違って読んでも腹はこわさないので、まあ興味ある方は読んでくださいな。

 

大河ドラマの「西郷どん」、結局一話も見ておりません。面白くなさそうだとか、政府辺りがやたら明治維新150周年を持ち上げ、それに乗るのが嫌だというわけではなく、単に仕事の時間の都合上見ることができないだけです。でも「おんな城主・直虎」は録画して後日見ていたので、やっぱり興味がないということなのでしょう。林真理子が独特の切り口から西郷を描いたといいますが、それでもここ数年の大河ドラマで何度も出てきているので、敢えて見たいという気にはならない。高橋克実小澤征悦らが演じてきましたが、一番印象に強く残っているのが「八重の桜」で吉川晃司が演じた西郷。坂本龍馬は西郷を「小さく叩けば小さく響き、大きく叩けば大きく響く」と評したそうですが、入れるものに応じて大きさが変わる器。会津の人々の恨みや悪名から、平将門から数えれば900年以上続いた「武士」という存在そのものまで、全て収めたままこの世から粛々と去っていった底知れなさを、吉川が見事に演じていた。

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2月にモリアテ教授が行って来たということで写真を送ってくれました。下の竜ケ岩洞は関係ないとして、上の浜松城は、井伊直政が少年期、家康の小姓として過ごしていた城で、「おんな城主・直虎」の後半の舞台となった場所です。

井伊直政という人物、後に譜代大名の中で最高の石高である彦根35万石(直政存命中は18万石)が与えられたように、徳川家の信頼が特別厚く、豊臣政権下では、徳川家の実質上ナンバー2は直政だと見られていました。それには秀吉の直政への好感度の高さも影響していました。秀吉が家康を帰順させるため、秀吉の母・大政所が徳川家に一時期人質に赴いた際、ふたりの人物が大政所の警護に携わりました。本多重次と井伊直政

本多重次は「鬼作左」という通り名が示すような、脳筋猪武者のようなイメージを持たれていますが、行政官としては、人の話をしっかりと聞いて公正な判断を下し、「三河三奉行」のひとりとして立派にその役割を果たした。とはいえ根は「三河武士」。良くも悪くも一本気。大政所の宿泊所の周囲に薪を積み上げ、万が一主君家康が秀吉の許に赴いた際、害されるようなことがあれば、薪に火を点け大政所を焼き殺すと猛烈アピール。当然秀吉や大政所の印象は悪くなる。

一方で直政は大政所を礼を尽くして丁重に扱い、彼女の信頼を得た。オマケに美男子だから大政所の侍女たちにも大人気。大政所が大阪に帰り、事の次第を聞いた秀吉は、直政を褒賞し、重次は罰するよう家康に命じました。重次は以降も武勲を立てながら、秀吉に睨まれているため生涯出世ができなかった。古参の重次は直政が万千代と呼ばれていた頃、新参者でかつ元今川家臣で、おまけに一度は没落した家の出身である直政が家康に気に入られているのに腹を立て、直政を侮辱したことがあり、 後に直政が引き立てられるようになると、出世できない重次を逆に嘲り返したとか。大河ドラマでも気性の激しい若者に描かれていたように、決して穏やかな人物ではありませんでした。

豊臣家の大名たちからも高く評価され、榊原康政や、ドラマの中ではあまり良く描かれなかった酒井忠次からも信頼されていたのですが、一方で部下に対しては殊更厳しかった。些細な失敗で打擲したり、ときには手打ちにしたとか。家臣たちは直政に呼ばれたときは、生きて帰ってこれないこともあり得るので、参じる前に家族と別れの盃を交わしたという話が残っています。別れの盃については、隋の文帝にも同じような話が残っており、それに基づいた作り話かもしれませんが、近藤康用の息子・秀用のように厳しさに耐えきれなかったり、庵原助右衛門(新野家三姉妹の三女・桜の夫になる人物で、ドラマでは予め直虎が会見して器量を確かめていた)のように反目して逐電する者もいました(近藤は後に許され、徳川家の直臣として、井伊谷藩主となる。ただ分割相続により藩としての井伊谷は消滅。また庵原は直政と和解して帰参。「真田丸」に登場した木村重成大坂夏の陣で討ち取ったのは実は彼)。江戸時代の後期、権勢と悪名を欲しいままにした老中・水野忠成(ただあきら)でさえ、登城の際、正装の着替えの用意を忘れて恥をかかせた家来の大失敗を、「直接の担当者ばかりか、当事者の自分でさえ忘れていたのだから、お前が忘れるのは無理もない」と、まったく咎めなかった話が残っている。

そう記すと、直政は心の狭い嫌な人物に感じられますが、「井伊の赤備え」と呼ばれた井伊家家臣団の中心は元武田家臣。先述したように、直政の出自は元は没落した今川の旧臣。一方の武田家は滅亡したとはいえかつては最強の名を欲しいままにし、今川家から駿河を奪ったこともある。甘い顔をしていればとても統率できない。それに、単に嫌な人物だったら、どこかで家臣に殺されていました。戦国時代にはそんな話はごまんとある。でも直政は家臣に厳しかった以上に、自分自身に厳しかった。それが結局、別の方向で彼自身の寿命を縮めてしまうことになる。関ケ原の合戦で退却する島津維新の軍を追撃。そのとき、「捨てがまり戦法」という、島津軍の命を捨てた壮絶な戦法を前に直政は負傷。その後大人しく傷を癒せばよかったのに、休むことなく戦後処理に奔走。中でも直政を負傷させた張本人である島津家と徳川家の講和に尽力し、結果傷を悪化させて41歳の若さでこの世を去りました。

直政にはふたりの息子がいました。直継と直孝。直政死後、跡を継いで彦根城を建てたのは直継なのですが、若い直継は直政の残した家臣団の統率ができなかった。井伊家の家臣団は先述したようにプライドの強い旧武田家臣が中心で、厳しい直政から若い直継に替われば当然家臣団に緩みが生じ、そこから内輪揉めが起こる。おまけに井伊家家臣には「付人」と呼ばれる、家康からつけられた元徳川家直臣の与力もいるものだから、収拾がつかなくなってしまった。騒動の中心は、ドラマで直虎に、戦死した父の供養のために経を読んで欲しいと頼んだ少年―鈴木重好。結局鈴木が、名誉を害することなく穏便に井伊家を退去するという形で決着したのですが、直継は彦根藩を統率する能力なしと烙印を押され、病弱で任務に堪えないという理由で、異母弟の直孝が跡を継ぐことに。文献によっては直継が彦根藩主の座を直孝に譲ったのではなく、直継は廃嫡―つまり彦根藩主として最初から存在していなかったことにされてしまっています。

ただ、直継にはこんな逸話があります。彦根城を完成させたのは直継なのですが、一時期、築城が進捗しない時期があった。そのとき出てきたのが、若い娘を「人柱」にするという話。郡上八幡城の稲葉貞通はおよしを人柱にしましたが、直継はそんなことをしても意味はないと耳を貸さなかった。しかし普請奉行が自身の娘を人柱に捧げるとともに、娘(名前を菊というらしい)も覚悟しているということで、直継も了承。菊を人柱にした後、工事は捗り、彦根城が完成した。その後普請奉行は直継から労いの言葉があるということで参上したら、そこにいたのは人柱のされたはずの娘・菊だった。直継は菊を人柱にしたと偽り、工事が完成するまで匿っていたのです。

それは直継が心優しい人物というより、人柱で工事が捗るというのは迷信に過ぎず、つまりは信じる信じないの問題に過ぎない。実際若い娘を人柱にしなくても、したと思いこませれば、皆がこれで工事が捗るようになると信じ、結果そのように事が運んでいくと読んでいたからではないでしょうか。人間の心理をよく理解していた。決して暗愚な人物ではないのですが、複雑かつ癖の強い家臣団をまとめ上げるだけの強さを持ち合わせていなかったということか。それから、酒に酔って正室(鳥居忠政の娘)の顔を傷つけてしまい、怒った妻が実家の鳥居家に帰ってしまい同家と険悪になってしまったことも、大きな減点材料になったでしょう。

ちなみに直継が家康の養女である正室の子であるのに対し、直孝は、直政がその正室の侍女に手をつけて”できちゃった”隠し子。そういった生まれの事情もあってか、直継は彦根18万石のうち3万石を分知され、安中で大名としての存続を許された。家臣も、小野、中野ら井伊谷時代からの家臣たちが直継に従うことと決められた。旧武田家臣や元家康の直臣である「付人」は統制できなくても、井伊谷からの家臣であれば大丈夫だろうということでしょう。それに井伊谷時代からの家臣たちは、膨れ上がった井伊家の中では少数派でした。直継は安中藩は大過なく治めることができ、1662年、72歳で逝去。

息子直好は三河西尾、遠江掛川に転封され、その過程で5000石加増されたのですが、次の直武、更にその次の直朝と暗愚な藩主が2代続き一度は廃絶の憂き目に。しかし2万石で越後与板に返り咲き、そこで明治維新まで家名を保ちました。最後の藩主・直安は井伊直弼の三男ですが、戊辰戦争の際はすんなり新政府側に恭順しているよう。

一方の次男直孝は大坂冬の陣真田幸村の軍と戦い惨敗したものの、夏の陣では名誉挽回して余りある大活躍。彦根藩は20万石、更に二代将軍秀忠の遺命により、松平忠明とともに三代将軍家光の後見役に任じられ、家光からも絶大なる信頼を得て30万石と譜代藩の中では最高の禄高に。隣国中国では明が滅亡し、台湾に逃れた忠臣鄭芝龍、鄭成功父子が日本に明再興のための援軍を要請したのですが、前向きだった家光に、外国の内戦に干渉する愚を語って思いとどまらせた。将軍家代々に多大な信頼を得て、長年幕政の中枢に置かれた栄誉は父に劣らぬものでしたが、将軍家への忠誠心は父を更に上回った。家光の寵愛を受けた長男直滋は将来40万石への加増まで約束され、当人もその気だったのですが、そんな息子に直孝は激怒。将軍家への忠誠より自身の栄達ばかり考えているとそれを反故にした。以降親子は激しく対立し、直滋は最終的に廃嫡されました。

 直継・直孝兄弟については、このような話もあります。家康はかねてより危険な存在だと感じていた自身の次男・結城秀康の暗殺を直継に命じた。直継は、いくら大御所様の命令でも、主君の子を殺すようなことはできないと拒否。次に直孝に命じると、たとえ大御所様の子でも、その大御所様の命令とあれば…と受諾する。それからしばらくして、結城秀康の急死後に、幕府の命により彦根藩主は直継ではなく直孝にするという命が下った。結城秀康の死と直孝の彦根藩主就任が時期的にほぼ一致するところからできた作り話でしょうが、徳川家に対する直継と直孝の考え方の違いが表れている。その直孝の強烈な徳川家への忠誠心が、200年以上経って後、苛烈な反対派弾圧を決行してでも幕府を守るという井伊直弼の姿勢に繋がっているのかもしれません。

その直孝や直弼を含め、井伊家は5名の大老を出しています。こう記すと、井伊家は幕政ばかりに目が向いていて、彦根領主としての勤めを疎かにしていたのでは?と思われるかもしれませんが、家臣には厳しかった直政も領民には優しかった。彦根に根を降ろして以降も、25万石や権勢に奢ることなく、財政が比較的安定していたこともあり、一揆も殆ど発生しませんでした。一度だけ藩と領民が一触即発になりかけたことがあったのですが、それも実はデマが原因で、一揆の首謀者も処罰されることなく釈放されています。日本国中で数多の餓死者を出した「天明の大飢饉」の折には12代藩主・直幸が藩の備蓄米を放出、領内に餓死者をひとりも出しませんでした。