粕本集呆の馬事放言

「粕本集呆の辛口一献」に替わるカスPこと粕本集呆の新ブログ。主に競馬関連中心ですが、ニコマス活動再開も企図しております。

明智光秀の従妹・濃姫について。

濃姫役を演じる沢尻エリカがドラッグで逮捕され、放送開始が延期されるという異例の事態となった「麒麟がくる」。当初は急いで撮り直すために時代劇に経験ある女優を前提に代役を決めるようだったのが、蓋を開ければ沢尻より10歳近く若くて、時代劇の経験ない川口春奈。今どきの可愛い女の子、という感じの川口春奈濃姫という人物を果たしてどのようなイメージに造り上げるのか興味があります。というのも、この濃姫、実像が殆ど後世に伝わっていないのです。

 

濃姫は道三の正室・於見の方の娘。於見の方の父は明智長山城主・明智光継で、明智光秀の父・光綱(資料によっては光隆)の妹。つまり光秀の叔母。濃姫と光秀は従兄妹の関係になります。異母兄に義龍。同じ母親の兄弟に喜平次龍元(義龍と母が同じという説あり)、孫四郎龍定、新五郎長龍がいますが、新五郎については後述。

かつては梟雄・斎藤道三の娘で、父親に「これで隙あらば信長を刺せ」と言って短刀を渡された際、「この刃、父上に向くかもしれません」と返したエピソードもあって、風雲児の妻にこの女傑あり、といったような描かれ方をされていたのですが、結婚後の彼女の記録があまりに少ないことから、現実にはふたりの関係は疎遠なものだったのでは?という見方が近年有力になり、それに伴って 近年信長を扱ったドラマでは、あまり濃姫は表立って出てこない。それに代わり側室で、信忠、信雄の母である生駒の方(吉乃)が表立って出てくるようになった。竹中直人が秀吉を演じたふたつの大河ドラマで、「軍師官兵衛」では内田有紀演じた濃姫が常に信長とともにいましたが、「秀吉」では信長に寄り添っていたのは斉藤慶子演じる生駒の方でした。
ただ、濃姫に限らず信長の妻とされる女性たちは、誰をとっても詳細な記録がない。生駒の方がクローズアップされたのは、彼女を正室扱いし、信長が彼女を寵愛していたという逸話が記されている「前野家文書」(武功夜話)の影響なのですが、この「前野家文書」、史料的価値のほどについては議論となっている。ドラマでよく使われる「吉乃」という名前も、「前野家文書」以外では見られません。

というわけで、濃姫については信長の正室でありながら、その生涯は謎に包まれているのです。
まず父道三が殺された後に離縁されたという説があり、更に津本陽の小説では、母の実家の明智長山城が義龍の軍に攻められた際に落命したと描かれています。ただ、そうなると道三を殺して美濃国主となった義龍(濃姫の異母兄)を討つ「舅の仇」という大義名分が立たなくなる。弱肉強食の戦国時代、大義名分なんて堅苦しいものが必要なのか?と思われがちですが、信長よりむしろ、信長に寝返る美濃の武将たちにこそ大義名分が必要となる。前国主の娘・濃姫の夫だからこそ、寝返っても言い訳がつくのです。ちなみにこの「大義名分」については信長の長男・信忠も重視したのですが、それについては後述します。

また、結婚後、時を経ずに病死したという説もありますが、以後の文献で度々濃姫の存在をうかがわせるものもあり、この説も決定力に欠ける。信長の美濃攻略は力押しというよりは調略主体で、西濃の「美濃三人衆」や東濃の諸豪族を信長が順調に調略できたのは、濃姫の存在あったからでは?

私が何より気になるのは、信長の正室とされる女性が、この濃姫以外に見当たらないことなのです。先述したように「前野家文書」では生駒の方が正室扱いになっているのですが、「前野家文書」の信憑性が確実ではない。しかもこの生駒の方、信長を扱ったドラマでは、信長の晩年まで生きていたような描かれ方をすることが多いのですが、実際は1566年に死去。信長が足利義昭を奉じて上洛する頃にはもうこの世にいない。
遺された文献の中に「あづち殿」と、女性らしき呼称があるのですが、たとえ「前野家文書」が信用できるものであったとしても、生駒の方は安土城が出来る頃にはこの世になく、該当しない。かといって他の信長の側室で、そう呼ばれるに相応しい女性がいない。強いて言えばお鍋の方で、信長の側室のまとめ役的存在だったのですが、これをもって「あづち殿」とまで仰々しく呼ばれるかは疑問。信長の居城の名を取って言われるからには、やはり正室であるのが妥当かと。
信長という男、利用できるなら何でも利用する男。古い権威は片っ端から粉砕というイメージがありますが、古い権威でも使えるものなら大事にする。大和の興福寺に肩入れしたあまり、松永久秀の謀叛を招いたこともあるのですが。もし死別なり離縁なりで濃姫と早くから別れていたなら、自身の政略を有利に進めるため、やんごとなきお方の御息女を形ばかりの正室に迎えることだってできたはずです。後に秀吉が家康との和睦のため、ちょうど家康の正室・築山殿が死去(家康との間に生まれた息子・信康が起こした家中内紛で、信康と運命をともにした)し、正室の座が空白になっているのをいいことに、秀吉が自分の妹・朝日を強引にねじ込んだように。信長の正室の座が空白になっていたなら、信長にその気はなくとも、外部からそこに自分の縁者を押し込もうという働きは幾らでもあったはず。
しかしそのような動きが皆無だったことから、おそらく濃姫は、信長が死ぬまで正室の座にあったのではと思われるのです。林通勝佐久間信盛のように、代々の譜代であろうが長年仕えていようが、いらないと思えば何の躊躇いもなく捨てる信長、濃姫がいらないとなればさっさと離縁し、利用価値のあるやんごとなき方の御息女を正室に立てているはず。

それに先掲した大河ドラマ軍師官兵衛」の中で信忠が濃姫を「母上」と呼ぶ場面がありました。とはいえ信忠の母は生駒の方であり、濃姫は信長の子供を産んでいない。血は繋がっていなくても、父親の正室を「母上」と呼ぶのはある意味妥当ではあるのですが、実はそれ以外に、信忠を生駒の方死後、信長と濃姫の間の子としているという説があります。信長は形のうえでは安土城が完成する前に隠居していて、家督尾張、美濃を信忠に譲っている。美濃を治める上で、形式上のものであっても「濃姫の子」であるということは、かつての国主・斎藤道三の血を継いでいるということで、信忠にとっては有利に作用します。
あと、濃姫の弟である末弟・新五郎長龍(当人は利治という名を用いている)は、濃姫の数少ない血縁者。義龍の父への叛逆の際、難を逃れて義兄信長の許に身を寄せ、織田方に寝返った加治田城主・佐藤紀伊守が長井道利に攻められた際、救援に駆けつけて、紀伊守と協力して撃退している。この戦いで紀伊守の息子が戦死していることもあり、信長の命で新五郎は紀伊守の娘を妻とし、紀伊守を隠居させて新五郎を加治田城主としました(紀伊守や、新五郎の妻となった娘はそれ以後も新五郎に大切にされた)。これは斎藤家再興を願う濃姫の引き立てによるものと考えられなくもない。この新五郎は武将としても優秀で、各地で活躍。特筆すべきは1578年、膠着した越中戦線打開のために信長の命で軍を率いて越中に侵入(その際姉の夫である飛騨の姉小路自綱が援軍として参加)、「月岡野の戦い」で上杉家きっての猛将・河田長親の軍と戦ってこれを撃破し、結果越中の力関係を大きく織田方に傾かせたことでしょう。ただ、基本は信忠の下に属していたようで、「月岡野の戦い」の後、すぐに信忠の有岡城包囲に加わっている。信忠が濃姫の養子となったという説を取れば、濃姫の弟である新五郎は叔父であり、信忠に重用されているというのも頷ける。実力のある武将でしたが、濃姫離縁説や、早期病死説ではここまで歴史の表舞台で活躍の機会は与えられなかったのでは。

濃姫の死についても諸説あり、先述した結婚後すぐに病死したという説以外にも、1592年説、1612年説、そして本能寺の変で夫と運命をともにした説等。司馬遼太郎の「国盗り物語」等、小説は一番ドラマチックである最後の説を採るケースが多く、山岡荘八の「織田信長」も本能寺の変では薙刀を振るい、翌朝、遺された多くの死体の中に、ひとりの美女の姿があったというくだりで終わる。「軍師官兵衛」でも本能寺で夫ともに戦うも、深手を負い、最期夫の手によって楽にされた。光秀が信長に重用された背景には、従妹の濃姫の存在があったかもしれず、濃姫が光秀のクーデターで命を落としたとしたら、皮肉というべきか。
濃姫の弟・新五郎は長く病気にあったようで、信忠が総大将を務めた1582年の武田攻めには参加していません。しかし同年、毛利との決戦に臨む際、信忠は新五郎の病が悪化するといけないので参陣を許さないと言い渡したところ、新五郎は病は癒えたと偽り、無理をおして信忠に付き従ったという逸話が残されています。そして本能寺の変で、信忠とともに二条城で明智の大軍を迎え撃ち、奮戦した末に落命。これも皮肉なことに相手は同じ斎藤一族の斎藤利三(光秀の家老)の軍だったと伝えられています。

 

信長が濃姫を最後まで捨てなかったのか。確かに美濃統治のうえで彼女の存在は有用だったかもしれません。しかし、もしかしたら生駒の方に向けたものとは違った意味での愛情を濃姫に持っていたのかもしれません。弟を殺した信長、父を兄に殺された濃姫。当事者であれ傍観者であれ、肉親どうしの殺し合いという非情の場に立ち会ったふたりの間に、男女の愛とは別の心の繋がりがあったと思えなくもないのです。

(この記事は2014年7月7日、過去のブログ「粕本集呆の辛口一献」にエントリーされたものを、 大幅に加筆修正したものです)