粕本集呆の馬事放言

「粕本集呆の辛口一献」に替わるカスPこと粕本集呆の新ブログ。主に競馬関連中心ですが、ニコマス活動再開も企図しております。

ある女性権利運動にいまひとつ賛同できない理由

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この記事を読んで「うーん…」と思うのは私だけでしょうか。

昔、鮎川麻弥平松愛理の曲で、出来るキャリアウーマンはヒールの踵の音を鳴らしながらオフィスの廊下を颯爽と歩く…なんてイメージを植え付けられ、更には八神ひろきの「G-Taste」で(以下略)な私にとっては、OLイコール、ヒールとまではいかなくてもパンプスなのです。

確かに、この署名活動をはじめた女性の唱えていることは理に適っているし、ヒールやパンプスを「現代の纏足」と言われれば、そうかもしれない。YMOの名曲(?)「体操」で叫ばれていた「ブルマー」は絶滅し、病院の女性看護師もパンツルックが主流になってきた。時代が変化しているのです。だから署名してと言われても私は断りますが、さりとて否定する気はありませんし、運動が実を結び、職場からヒールやパンプスが消えても、それが時代の移り変わりだと受け容れるしかない。鮎川麻弥平松愛理の曲に出てくるOLが、好きな女の子と話すために公衆電話にコインを何枚も入れ続ける若者と同様、帰ってこない昔の存在になってちょっとセンチな気分に浸るくらいでしょう。

ただ、一番嫌なのは、パンプスやヒールから解放された女性たちが、まだ履き続けている職場の女性たちを「男に好かれたい」とか「まだ男に媚びている」と軽蔑し、攻撃すること。こういった運動は往々にしてリベラリズムの皮を被りながら多様性を認めなかったりする。「強制をなくしたい」が次第に「存在をなくしたい」に変わり、従わない人たちを排撃していくようになるのが怖い。

私のふたつの職場のうちの片方は、初夏から冬に入るまで、一部の幹部社員を除いてノーネクタイが認められています。職場の大半の男性社員がネクタイを外すのですが、強制ではないので私は真夏でも着用している。ネクタイなんて当然ない方が楽ですし、私は実は喉に疾患がある。でもネクタイを着用しているのは、その方が心が引き締まるから。スーツも窮屈ですが、家の中での普段着の自分と違って、自然背筋がピンとなる。「全日本怠け者コンテスト」なるものがあったら、チャンピオンにはなれなくても「地区代表」くらいには選ばれる自信がある私でも、それなりに「働く人」モードになる。

働く女性の中にも、敢えて窮屈なスーツを着てヒールを履くことによって、自身を律している人がいるかもしれない。私がスーツを着るように、ヒールやパンプスを履くことで気持ちを切り替えるということです。「見られたがっている」「格好つけている」と思われるでしょうが、反面、見られていたり格好をつけている以上、だらしない姿勢は見せられない。

それにもうひとつ、性的なものとは別に「粋」という日本人特有の美的感覚がある。「かっこいい」に近く、異性だけでなく同性に対しても向けられるものです。やせ我慢を伴って「演じている」ことも多々あるので「効率」や「合理性」、「生産性」を重視する欧米の価値観とは対極に位置し、だんだんと失われつつある。先に鮎川麻弥平松愛理の曲を挙げましたが、聴くのは男性より女性の方が多かったはず(鮎川麻弥は「Z-刻をこえて」でどうしてもアニソンのイメージが強いのですが、働く女性の日常をテーマにした曲が結構多い)。恋と仕事の両立に悩んでいるような曲で、結局は仕事を選んで男に逃げられるといったような。仕事もできて異性にモテる、というのは最強の「粋」で同性から見てもそれは憧れ。タイトなスーツとヒールが半ば「男社会に作られたもの」であろうと「粋」な女性の必須アイテムだったのです……80年代は。

この「♯KuToo」という運動も、元は欧米の運動に影響されているし、提唱している女性自身が欧米の価値観に傾倒しているように思える。欧米の価値観にも取り入れるべき点は多くあり、女性の権利向上には私も無論賛成ですが、欧米の言うことがすべて正しくて、アジア—日本人の持っていた価値観がそれと異なっていれば即間違っているという考えには陥って欲しくないと思います。以前、カルロス・ゴーンが逮捕されたとき、彼の特別背任等の罪状とは別に、それまでの莫大な報酬が果たして妥当なのかどうかという議論がありました。CEOに対する莫大な報酬を肯定する識者の多くが、それが欧米のスタンダードだからというものでしたが、数少ない本物の保守論者の一人、佐伯啓思氏が朝日新聞のコラムで、実に明快な解答を記していました。問題はそれが日本の社会風土に合うかどうかであって、欧米で常識と見做されているものでも、必ずしもそれが日本社会に適しているとは限らない、と。

欧米の価値観は一神教であるキリスト教の影響か、相反するふたつの考えがあれば、どちらかが正しくてどちらかが間違っていると決めつけ、間違っていると判断した方は排除しなければならないという傾向があります。相反するものが共存するのは明らかに「合理的」ではないからです。職場でヒールやパンプスを強制するのは確かに私も反対ですし、強制することは日本の社会風土とは関係ない。でも署名したくないのは、それが職場でのヒールやパンプスそのものの否定、排除を目指しているように思えるからです。ネーミング自体が「靴」+「苦痛」と、ヒールやパンプスイコール苦痛—即ち悪だと決めつけている。この「♯KuToo」に限らず、最近は運動といい言論といい、ある「正義」があって、それに反するものを「悪」と見做して攻撃し、潰すことばかりを目的としているようで、そんな「正義」が蔓延している世の中全体が息苦しい。「#MeToo」自体が決して間違っていることでもないのに、いやに攻撃的なイメージを抱くのは、私が攻撃される側の男に属しているからでしょうか?それとも「ヒール」がいい女のアイテムだった80年代ポップスばかり訊いている黴が生えた人間だから?