粕本集呆の馬事放言

「粕本集呆の辛口一献」に替わるカスPこと粕本集呆の新ブログ。主に競馬関連中心ですが、ニコマス活動再開も企図しております。

「終戦記念日」と呼ばれる8月15日に記すこと。

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明日(8月15日)は終戦記念日ですが、それどころではない状況。特に豪雨災害に遭われた方にお見舞い申し上げます。こちらもそれなりに被害は受けましたが、人の命が危険にさらされるとか、そこまで深刻な被害ではありませんでした。

 

ネットオークションで欲しいものがあり、6万5000円まで出したのですが落札できず。悔しい反面、ちょっとばかりホッとしたところもあるのですが、問題はあわよくば落札する資金をゲットできないかと、仕事の休憩中、土曜中央の最終レース(もう最終レースしか残っていなかった)を3場ともまともに予想せず、わざとオッズの高い馬中心に適当に買い散らして……勿論当たるはずがなく、これはいよいよヤキが回ったと。というわけで日曜日は競馬をしないことにします。

以前紹介した、私も末席を汚している郡上文化誌「郡上Ⅱ」第4号。実はこの文化誌、山川雅典氏が寄稿しておられる。誰?……と問われると、郡上の名家で東京郡上人会副会長。そして、今年春までグリーンチャンネルの理事長を務めておられた。それ以前は長きにわたり憎っくき……もとい愛すべきJRAで要職を歴任。そういう方と同じ本に寄稿し、しかも私は競馬関連の記事を著したのは奇遇。

とはいえ山川氏による記事は競馬とは一切関係がない。一族の山川弘至という文人と、その妻京子の足跡を辿る伝記。

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山川弘至は郷土の歴史や風習、民話に深い造詣を持つ教養人の父と郡上藩主青山家(郡上一揆《宝暦騒動》で金森家が改易された後に入封。以降幕末まで郡上を統治)出身の母の間に生まれた。折口信夫に師事し、国学神道の研究に没頭。また折口を通じて金田一京助、考古学者の樋口清之にも師事するようになる。また詩人としては萩原朔太郎に入門。文学、美術様々な分野で当世一流の文化人たちと交流を結び、彼らからその文才を高く評価された。歌人・中河幹子の紹介で松本清張の従妹でもあり、中河の門人であった田中京子とお見合いし、結婚するのだが、同時に召集令状が山川の元に届き、殆ど新婚生活もないまま、出征に赴く。夫から送られてくる作品や手紙がだけが、夫婦の絆だった。

軍が描いた歪な民族主義に覆われた日本が戦争に突き進む中、愛国の士として、山川弘至はそれとは異なった古典的な面から民族主義を支えることになるのですが、それがどういうものであるか、教養乏しい私には表現が難しい。例えが適当かどうかわかりませんが、三島由紀夫がそれに近いのでは。山川雅典氏の文中で紹介される山川弘至の文や詩を読み、彼に共感できるかといえば、やはり戦後民主主義と物質主義の中で育った私とは土台にある価値観が違う。従って共感はできませんが、深く広い学識によって培われた純粋な愛国の志は、愚昧な私にすらはっきりと感じ取れる。読む者を酔わせ、高揚させる。人を引き込む力がある。

でもその勇壮なる志は悲劇を彩る絵具のようでもあった。「勇躍艇身護国の志を固め」(文中)た山川弘至は昭和20年8月11日、台湾の日本軍基地で米軍機の襲撃に遭い戦死。享年27歳。終戦の僅か4日前。出征の際、区隊長は京子にこっそり「良かったですね。内地ですから。安心してください」と言ってくれたらしいが、当時は日本国内だけでなく、植民地支配が安定している台湾も「内地」と括られていたのかもしれない。しかし戦況の悪化は、兵士や銃後の家族から「安心」できる場所を奪っていった。

7月15日に記し、妻であり、文人としての同志―「あなたもよほど勉強しておかぬと戦線の私におとりますよ」と出征先から激励している―である京子の元には9月27日に届いた「遺書」とされる詩と文は、悲壮としかいいようがない。最後の方の一文。

 

―運命はひとまづ三十にして立つべき私の力を拒み 悔しい しかし私はあくまで屈しない この仇は十倍にして他日とる 必ず宣長真淵を超える大家になってみせる…

七月十五日出 山川弘至

京子さま

今日 ヒコーキが出るので 大いそぎで之をたのみます どうかぶじついてくれ

 

ウィキペディアで検索すると、

山川弘至 - Wikipedia

一行。無論ウィキペディアは一般人が勝手に(?)記していくものなので、長ければいいというものではない。しかし本居宣長賀茂真淵を超える壮大な野心を持ち(常々本居宣長を越えるというのが口癖だったらしい)、そんな大言壮語を一笑に付されないくらいに認められていた若者が、結局戦争で死んだために、知る人ぞ知る…で終わってしまっている。競馬ライターの島田明宏氏が伝記を記した騎手・前田長吉もそうですが、戦争というものは、人の命とともに、その可能性すら無にしてしまう。「遺書」を記した頃には台湾で本土決戦の準備に携わっていた彼にも、日本の敗戦がもはや覆せないものであることはわかっていたでしょう。

「文の道剣の道と日の本の ますらをふの道直(ひた)に征かむわれは」

と詠んで出征しながら、亡国の末に死ぬことを予感し、覚悟しながらもそれに抗おうとする心が表れています。

昨今愛国や憂国を売り物や人気取りの道具に使う愚か者たちが一部メディアに持て囃されていますが、その滑稽さ―特に愛知県知事のリコールに群がった連中の、不正が露見した後の見苦しい有様は喜劇映画にすらできる―を目の当たりにしている私からすれば、山川弘至のあまりに純真な愛国と民族主義は美しく、それが故に哀しいとしかいいようがない。

 

―生還していれば、おそらく才能を開花させ、戦後保守の旗頭として、国風を詠い続けて、文壇で異色を放ち、日本独自の精神風土を生み出し日本人の至誠を語り続けたであろうと言われている(文中より)。

 

とはいえ、戦後民主主義の中、三島は挫折し、75年を経て「保守」という言葉は本来の意味を失い、歪められ、完全に死に体と化した。生還していれば、日本人の至誠を語り続けながらも、変わっていく日本に苦悩したかもしれません。ひとつの時代が彼の可能性を摘んでしまいましたが、じゃあ次の時代が彼の可能性を大いに羽ばたかせたか……時代とともに遊ぶことに長けていた三島でさえ最後は共存に行き詰った。彼が師事した樋口清之のように、卑小化していく民族主義に馴染んで栄誉を保つこともなかった気がする。山川弘至は戦後民主主義に順応するにはまじめで純粋すぎる人だったような気もしないではありません。

妻の京子については、2014年まで存命。戦後、民族主義を危険視するGHQにより夫・弘至の作品は封印されるのですが、それが解けて後は、亡夫の遺作を世に出すことに尽力(弘至の文と京子の遺志に感銘を受けた日本を代表する画家のひとり・棟方志功が本の装丁を手掛けている)する一方、最後まで「国風」を詠う現役の歌人であり続けました。

 

山川弘至の死後4日、8月15日を境に日本は良くも悪くも大きく変わった。あれから76年。日本人の安全を無視してオリンピックを強行した政府、オリンピックをやったのだから、俺たちも好きにしていいだろうと、投げやりな国民。戦後民主主義の限界を指摘される一方、山川弘至が愛した民族主義は俗悪な商売道具になり下がった。行き先を見失った日本は果たしてどこに向かうのか。

(太字は山川雅典氏の文章からの引用)

 

当文化誌は郡上市内であれば書店で購入できますが、お問い合わせは、喫茶「門」(電話番号:0575-65-2048。代表:古池五十鈴(こいけ いすず)氏へ。この文自体の文責は読者である私にあり、山川雅典氏は一切関係ないことをここに記します。